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2010年7月 1日 (木)

首藤剛志

ポケモンアニメの初代シリーズ構成をしていた首藤剛志さん。
彼がWEBアニメスタイルで連載してたコラムが最終回を迎えた。

http://www.style.fm/as/05_column/shudo226.shtml 

誰でも脚本家になれる方法というのがテーマだったようだけど、結局その真意はよく分からないと言うか、自分がなれたんだから皆にもできる、ということが言いたかったのかな?
全然説得力ない結論だと思うけど。

未読の記事もあるのでまだこのコラムからは目が離せないが、全部読んだ所でやっぱりよく分からないやという結論しか出てこない気がする。

よく分からない。それが首藤剛志という人物に対する自分の結論。

その分からない人が礎を作ったポケモンアニメが今も続いている。
ポケモンアニメにはその’分からない’が今も残っているように感じる。

第138回の連載からポケモンアニメの話が続いてます。
興味のある人は自己責任で読んでみてはいかがでしょう。

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コメント

 首藤さんがポケモンアニメでやろうとした事は、
今では憶測する以外にありませんが、ポケモンにとってはある意味で、
強烈なカウンターとなる事だったかもしれない。
もしかすると、サトシが目指したポケモンマスターとは、
ポケモントレーナーの道の外にあるものだと、首藤さんは考えていたのかもしれない。
あるいは「ポケモンからの卒業」。それこそがポケモンマスターなのだと。

そうでなくとも、首藤さんは、自身が手がけた劇場公開作品において、
裏テーマとして、ポケモンがポケモン自身を批判し、
あるいはナンセンスと蹴り飛ばす様なことをやっている。
「ミュウツーの逆襲」では、ポケモンバトルやポケモントレーナーがナンセンスだと言い、
「ルギア爆誕」では、子供が世界を救うなんてナンセンスだと言ってみたり、
あるいはジラルダンを通し、人間が人間の都合でポケモンを捕獲することのナンセンスさを書き、
「結晶塔の帝王」では、最後まで書き切ることこそできなかったが、
初期プロットや結晶世界から、「ポケモンという架空世界」に溺れる事の無意味と無価値、
転じて、ビデオゲームを遊ぶ事に対する、否定的な疑問の投げかけ、
「げーむにまじになっちゃってどうするの」という、
ポケモンの前提、自我同一性に対する、
強烈なカウンターを浴びせかけようとした。
ポケモンが銀幕を通して、自分自身について批判し、
あるいは、自分自身を滑稽だと、大変にバカげていると笑う。
その様は、ある意味では大変に毒々しく、痛々しい様かもしれない。
こと、「ポケモンとは遊びである、ビデオゲームである」と規定する現代ポケモンから見れば、
首藤ポケモンの様な物語、こと、「ミュウツーの逆襲」のような、
「ポケモンが意思を持って人間に戦いを挑む」等と云う物語は、描きようが無いでしょうし、
おそらく、許されることもないでしょう。

 ですが。少し見方を変えると、首藤さんがポケモンアニメに携わっていた時期というのは、
ポケモンが自己批判を行ったり、自身をナンセンスと言うような事をやっても、
許してくれた…とまではいかないかもしれないが、少なくとも、黙って見逃してくれた、
アニメを作る側にとって、自由にやれる範囲が広かった時期とも言える。
作り手の側で、好きに出来る事が多かったからこそ、
首藤さんも、また、その「奇才」ぶりを存分に発揮できた。
こうも考えられるのです。

 翻って、今のポケモンアニメを取り巻く環境はどうか。
ポケモンパニック以後の、視聴者に対しての配慮や、
海外輸出を考慮した映像表現、それは仕方ないとしても、
ポケモンは、脚本や演出の、「もっとポケモンを面白くしたい」という意思を、刺激できているか。
彼等が作品を面白くできるような環境作りを、ポケモンの意思は行っているか。
何よりも、「ポケモンアニメが面白くなること」と、
ビジネス上の利益が、ポケモンの意思の中で、しっかりと連動・連結しているのか。
それを考えると、時にノスタルジアに浸ることもある。

 首藤さんは奇才だったが、その奇才を、
ポケモンにおいても、奇才たらしめたのは、
緩やかな縛りの下、作り手側が作りたい作品を作り出せた、
スポンサーの理解と、環境があった事に起因すると考えますと、
現代ポケモンも、アニメを「ゲームの宣伝装置」「連動の部品のひとつ」とみなすのでなく、
一定の独自性を認め、ある程度、自由にやらせた方が、
ポケモン全体の益になるのではあるまいかと、
こんな事を考える次第であります。

投稿: ニドリーノ博士 | 2010年7月 1日 (木) 20時17分

こんばんは、ゼノンです。

・首藤剛志さんの真意
私は、少しポケモンの話がされている第71回の連載と、第138回~第226回の最終回の連載まで読みましたが、確かに首藤さんは、自分がなれたんだから皆にもできる、ということが言いたかったのだと思います。
しかし、首藤さんの真意は、最終回(第226回)の●あとがきの最後から2行目にある

>正直言って、気楽にアニメの脚本家は目指さない方がいいと思いますよ。

この言葉に込められているのではないかと思います。
これは私の推測ですが、首藤さんのブログの内容からこの言葉を要約すると、「アニメの脚本家を目指すなら、覚悟とやる気が必要である」ということが言いたかったのではないかと思います。
覚悟がないと、首藤さんの様に度重なる不摂生で何度も入院することになり、やる気があったからこそ、何度入院しても脚本を書くことができたのだろうと思います。
分かったような書き方をしていますが、本当は私も首藤さんのことがよく分かりません。
実際のところ、首藤さん自身もよく分かっていないと思います。

・首藤さんが楚を作ったポケモンアニメ
ポケモンアニメに’分からない’が今も残っているように感じるのは、第143回にある

>アニメ版『ポケモン』の視聴者は、歳を取る。 しかし、アニメ版『ポケモン』の世界は歳を取らない。
 つまり僕は、『ポケモン』の世界を、サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジーにしたかったのである。

簡単に言えば、ポケモンアニメは視聴者の子供時代を懐古させることも目的の一つであるということです。
ポケモンアニメの’分からない’は、視聴者の探究心という名の冒険に繋がる。
そういう意味では、ポケモンアニメは今も昔も変わっていないのかもしれません。

私の推測ばかりで申し訳ありませんが、んがよぺさんが首藤さんの事を知ることに、雀の涙ほどでも貢献できれば幸いです。

長文失礼しました。

投稿: ゼノン | 2010年7月 1日 (木) 22時07分

コメント返信

>ニドリーノ博士さん
昔の方が・・・なんて言い方は好きじゃないのですが、ポケモンアニメの深淵を知りたくて首藤氏のコラム他様々な情報・記録を辿っていくうちに、昔のポケモンアニメは縛りが少なく今よりもはるかに自由であった、というのは認めざるを得ない事実だと思います。

近年、特にDP編はゲーム内のイベントの再現や新作ゲームとの連動が無印と呼ばれる頃のそれとは比較にならないほど強化されてると感じますし、ポケモンアニメのスタッフに要求されるものの多さと負担は察するに余りあると思います。

いまや世界に広がるポケモンですから、首藤氏の「奇才」が通用した時ほど寛容ではいられないのは仕方のないことなのかもしれませんが、少し枠からはみ出してみるくらいの悪ふざけを見せてくれてもいいのではないかと思います。

そのはみ出した部分こそポケモンを知らない人を引き付ける力になり得るかもしれないと自分は考えます。

>ゼノンさん
誰でもなれるとは言いながら、実際は想像以上の負担があるんだろうということは記事を読んでて思いましたし、そういうことを覚悟しないとやっていけないんでしょうね。

ポケモンは今でも首藤さんの言うノスタルジーの部分が根底にあると思います。
スタッフにとってはバトルやコンテストよりもそれの方が重要なのかもと自分は考えています。

コメントありがとうございました。

投稿: んがよぺ | 2010年7月 4日 (日) 09時22分

 とても古い記事にコメントすることになり、いささか気が引ける部分があるのですが・・・
んがよぺ様の示す上記のコラムを通読した私から言わせていただけば、今では故人となった首藤剛志氏は「自分は特段変わったことをしているわけではない」ことを強調したかったのだと思います。自分と同じように名作映画やその他の媒体から少しでも多くのヒントを得て、そのヒントをきっちりと自分流にアレンジしていく、それこそが「首藤剛志流」の創作術であり、全てであると訴えたかったのでしょう。
 つまり、創作の基礎となる人間ドラマはすでに書き尽くされているんだから、その題材は少し探せばいくらでもある、故人の活動期にはその大半が映画であったのに対して、現在は情報の氾濫期ともいえるほどに充実しているのだから、それを正しく取捨選択して自分流にアレンジすればよい。それこそが彼の言いたい「創作術の原点」なのでしょう。そして、これはただ「脚本家になる」だけのための手段であり、「脚本家として開花する」「脚本家として生計を立てていく」こととは全く別の問題である。とも言っている。それこそが最後の締めの言葉です。
 脚本家になることは簡単である、ただし脚本家として独り立ちすることは並大抵ではない。その覚悟が皆さんはおありですか? それこそが彼の得た答えであり、現実です。彼のような確たる実績と信頼を得た脚本家ですら命を削るほどに努力しないともろく崩れ去る蜃気楼上の玉座、それこそがプロの脚本家の座る席であり、彼もそのようにして命を落とした同業の方たちに思いを馳せつつ、それこそ幾人も見送っています。
 後悔したくないなら脚本家なんて夢は見ないでください。本当に脚本家になりたいなら、その現実を理解したうえで私の上げた基本的なことを一つ一つ、地道に実践していきなさい。そして何よりもまず、「自分が何を訴えたいか」を明白にしなさい。そう語りかけているのだと私は理解しています。
 賛否両論の分かれる「ポケットモンスター・ミュウツーの逆襲」のラストですが、これは彼の書きたかった痛烈なブラックユーモア、社会批判が物語とも、そしてターゲットとなる視聴者層とも乖離してしまったために書ききれなかった苦渋の決断であり、そして彼の最大の遺恨ではないか、そうも感じられます。実際ポケットモンスター劇場版用として次の長編を書いておられたようですが、これは周囲から執筆を止められたという話からも、きっとその書き残した部分を何とか形にしたいという思いから出発していたのでしょう。
彼の奇才の本質は「社会そのものに疑問を持つ」ことであり、「現実社会へのアンチテーゼ」であると私は理解しています。社会そのものが平穏無事に流れているならそれでいいのか? という問いかけ、それこそが彼の描く物語の基礎なのだとしか思えない、それが彼の創作術を読んだ私の結論であり、たぶん彼の真意に最も近い答えなのではないかなと考える次第です。
・・・生前何ら連絡を取ることもかなわなかった双従兄への記事を読み、思わずコメントを残すことになったことをここに重ねてお詫び申し上げます。
これからも彼ら先達となる数多くの故人たちを偲びつつ、時には思い出していただきますよう・・・

投稿: 首藤えりか | 2017年12月24日 (日) 12時03分

コメント返信:首藤えりかさん


初めまして。
まず、今になってこの記事にコメントが来るとは思わず面食らっているというのが正直な気持ちです。
そしてこんな拙い記事を読んで頂きコメントまで頂いてありがとうございます。


脚本ではありませんが、書くということなら今こうしてこのブログを続けてる自分のような人間もいますので、ただ書くだけなら誰にもでも出来てしまいます。
それこそちょっと書き方を勉強すれば脚本家になることも難しくないのかもしれません。
でも仰るように脚本家として独り立ちするとなれば覚悟を決めて命を削る思いで続けていかなければプロの脚本家にはなれないでしょう。
そういう覚悟、書くことを生業とできるか覚悟があるか・・・とても自分にはそんな覚悟を持つ勇気がありません。
改めてコラムを読み直しコメントを読んで、自分の表現したい事・訴えたい事を書くために脚本家として命を燃やした首藤さんは偉大な方だと改めて思いました。

首藤さんが抱く社会そのものへの疑問、その本質がポケモンアニメにも表れて今も語り継がれる作品になったと思いますが、首藤さんが伝えたかった全てが表現できなかった事もコラムからうかがえます。
しかし今年のポケモン劇場版が首藤さんの構想を現代流に再構築したと思われる箇所があり、まだファンの間での噂レベルでしかありませんが来年以降の劇場版も首藤さんが描こうとしてたポケモンを再構成するのではないかという推測を耳にします。
もしそれが現実になったとしたら、首藤さんが表現したかった完全な形ではなかったとしてもポケモンファンとしては嬉しい事です。
今年のポケモン劇場版で首藤さんに思いを馳せたように、また首藤さんの思いに触れらる時が来ると自分は願っています。

投稿: んがよぺ | 2017年12月27日 (水) 09時06分

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